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大阪地方裁判所 昭和27年(ワ)4930号 判決

原告 水谷千太郎

被告 泥谷産業株式会社 外一名

主文

被告等は各自原告に対し金一、二二八、七二九円及びこれに対する昭和二八年一月二三日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告等の負担とする。

この判決は原告において被告等に対し各金四一〇、〇〇〇円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

原告は主文第一、二項同旨の判決と仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、原告は昭和二六年一〇月五日その所有する汽船第二六千代太丸(総屯数六一トン二七、船質木、焼球式発動機二〇〇馬力、船籍港尾道市、船長雪頭明吉。以下単に本船と称する。)について東西汽船株式会社との間に六ケ月間の定期傭船契約を締結し、本船は昭和二六年一〇月二〇日以来右契約に基き朝鮮仁川港内において米第八軍指定の曳船作業に従事していた。

二、被告会社もその所有の汽船輝島丸(総屯数九九トン八六、船質鋼、往復動汽機、船籍大阪市、船長被告島春馬。以下単に他船と称する。)について東西汽船株式会社との間に定期傭船契約を締結し、他船は本船と同様仁川港内において曳船作業に従事していた。

三、本船は昭和二七年一月一日午後三時四〇分頃仁川港水門入口南桟橋北側に到着し、貨物積載鋼製艀船の北外側に東向に係留して水門の開くのを待期していたところ、同日午後四時頃同水門入口北桟橋南側を発し空艙鋼製艀船二隻(舵の装置なく、乗員なし)を同桟橋より曳出した他船は全速力で航進し、被曳艀船が本船に衝突する虞れがあつたので、本船乗組員は大声で叫び他船の注意を喚起したが、間に合はず、他船が曳航する殿艀船の左舷船尾が本船左舷に激突し、その為本船は右舷に大傾斜して、本船右舷中央部が係留鋼製艀船に接触した。右衝突により本船は右舷側において外板二ケ所破損、肋骨二本折損、左舷側において外板二ケ所破損、推進器翼一枚屈曲、舵柱材、舵心材折損し、シユーピース離脱の損傷を被り、曳船作業能力を失つた。当時天候は晴、潮候は漲潮の初期であつた。

四、およそ、航行船の船長は、操縦の自由を有しない停泊船を避航すべきであり、特に港内のような狭隘な海面において操舵装置及び乗員のない艀船二隻を曳航して方向転換をするに際しては、その曳航する殿艀船が停泊船に接触しないようにその操舵及び機関運転に細心の注意を払う職務上の義務がある。ところで当時他船が碇泊していた北桟橋の端から西方五〇メートル乃至六〇メートルの地点には沈船があつたので、他船が北桟橋を出発し、沖に進航するには針路を少しく左方に執る必要はあつたが、沈船は当時水面上に姿を現わしていたので、その南方一メートル乃至三メートルの距離に接近しても何等他船に危険はなかつた。従つて、他船の船長である被告島は他船の出発に際し、沈船を避ける為に左方に大きく針路を採る必要がなかつたのに前記注意義務を怠り、曳航の艀船に舵がなく振れ廻りが大きく本船と衝突する危険があることに気付かず漫然針路を大きく左に採つた為本件衝突を惹起したものであるから、本件衝突は被告島の職務上の過失に基くこと明かである。

五、本船は本件衝突により曳船能力を失つたので直ちに修理する必要があつたが、仁川港には船舶修理施設がなかつたので、衝突による損傷修理の為米軍の出航許可を得て、昭和二七年一月四日午後一時頃仁川港を出港し、途中徳積島、鞍馬島その他に避難寄港し同年同月一八日午後七時三〇分釜山港に入港したが、同港にも修理に必要な舵柱材、舵心材の材料の堅材がなかつたので、已むを得ず内地において修理を施す為米軍の廻航許可を得て同年三月一日午前一一時同港を出港し、代用舵によりかろうじて操船し翌日午後三時二〇分頃下関港外六連島に到着し、修理費の低廉な広島県幸崎にある幸陽船渠株式会社工場において修理を受ける目的で機帆船清勝丸に曳引され同年同月六日午後一時下関港を出港し、同月九日午前一〇時四〇分頃同工場に到着し、同社及び株式会社末田鉄工所の手で船体及び機関の修理を受け、同年同月一八日午前四時頃同所を出発し、同月二六日午後三時釜山港における曳船作業継続のため下関港を出港した。

六、以上のような次第で、原告は本件衝突による本船の損傷修理の為次のような損害を被つた。

(1)  傭船料金七二二、八〇二円九二銭

原告と東西汽船株式会社との間の前記傭船契約によると船体破損の為連続一二時間以上契約に基き稼動できないときは、修理完了の上再び稼動するまでの間はオフハイヤーとなり約定の傭船料の支払を受け得られないのであるが、本船は本件衝突の結果稼動能力を失い衝突の翌日である昭和二七年一月二日午後二時から修理を完了して再び稼動する為下関港を出港した同年三月二六日午後三時までの間二ケ月二四日オフハイヤーとなり、原告は本件衝突がなかつたならば受け得られるはずの一ケ月金六〇〇、〇〇〇円の割合による傭船料合計金一、六六四、五一五円九二銭の得べかりし利益の喪失による損害を被つた。右損害の中原告は東西汽船株式会社から金九四一、七一三円の支払を受けたのでこれを控除した残額金七二二、八〇二円九二銭が原告の被つた損害である。

(2)  燃料油代金七一、四二七円

本船は修理の為内地行に合計一二三時間一五分航行し、その間本船はその燃料として一時間につき重油二斗(価格一斗当り金二一〇円)、機械油二升(価格一升当り金八〇円)の割合による価額合計金七一、四二七円の燃料油を費消した。

(3)  船員の食料代金合計五〇、四〇〇円

原告は前記オフハイヤーの期間中は傭船者から船員の食糧費の支給を受けられなかつたので、右期間中船員六名につき一月一人当り金三、〇〇〇円の割合による食糧費合計五〇、四〇〇円の支出を余儀なくされた。

(4)  下関港、幸崎間の本船曳船代金及び雑費合計金一八、一〇〇円

原告は本船の損傷修理の為必要な費用として下関港、広島県幸崎間の本船の曳船代金として清勝丸船長に対し金一五、〇〇〇円を支払い又慣例に従い同船長に対して酒代金一、〇〇〇円及び所要燃料重油一八〇リツトル(価格二、一〇〇円相当)を交付した。

(5)  幸陽船渠株式会社に支払つた船体修理代金二八六、〇〇〇円

(6)  株式会社末田鉄工所に支払つた推進器及びシユーピース修理代金八〇、〇〇〇円

以上の損害合計金一、二二八、七二九円は原告が本件衝突に基因して被つた損害であるから、被告島は直接不法行為者として被告会社は他船の所有者として各自原告に対し右損害を賠償する義務がある。よつて原告は被告等に対し右損害金とこれに対する訴状送達の翌日である昭和二八年一月二三日以降支払済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の各自支払を求める為本訴に及んだと述べ、

七、被告の答弁に対し、他船船員大黒亀松が東西汽船株式会社の係員村岡利男から本件衝突の事実を聞知したこと、本船は釜山廻航中故障を生じ漂流したこと、木浦行漁船に曳航され木浦港に入港したこと、昭和二七年三月一七日救助に来た他船に抱えられ同月一九日釜山に入港したことはいずれも認めるが、その他の事実は否認する。もつとも、本船が仁川港において曳船作業に従事中数回他船と接触し、少損害を被つたことはあるが、曳船作業中の損傷は総て米軍の手で修理を受けていたから本船船長は他船に抗議を申入れる必要もなかつた。本件衝突による損害も東西汽船株式会社の係員を通じ米軍に対し修理方を接衝した結果米軍により修理を受ける為釜山へ廻航したものであるから、本船の船長並びに船員が他船に損傷を被つたことを告げ抗議乃至損害賠償を請求する必要はなかつたし、他船の船長は木浦から釜山に至る間病気で寝ていたので抗議等を申入する機会もなかつた。ところが釜山には前記の通り堅材がなかつたので、已むを得ず内地に廻航したものであるが、東西汽船株式会社の係員の話では修理費用は米軍が負担することになろうとのことであつたのに、予期に反して米軍の方針が変更され、これを負担する法律上の義務がないとして、負担してもらえなかつた為本訴で被告等に対し損害賠償の請求をするに至つたものであつて、本船船長が他船船長等に抗議等しなかつたこと、他船船長の損害箇所確認書をとらなかつたこと及び管海官庁に本件衝突を報告していないこと等をとらえて、本件衝突により本船が損傷を受けた事実を否定できるものではない。と述べた。〈証拠省略〉

被告等は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、

一、原告主張の事実中一、二の事実は認める。三の事実中他船が昭和二七年一月一日午後四時頃仁川港水門入口北桟橋南側において空艙鋼製艀船二隻を曳航した際その曳航の艀船が本船に接触した事実は認めるが、その他の事実は否認する。四の事実中航行船の船長が原告主張のような職務上の注意義務を負担するものであることは認めるが、その他の事実は否認する。五の事実中本船が昭和二七年一月四日仁川港を出港し途中鞍馬島に避難し、木浦港に寄港した後同年同月一九日釜山港に入港したこと、本船が広島県幸崎で幸陽船渠株式会社の修理を受けた事実は認めるが、釜山に舵柱材、舵心材の修理に必要な材料がなかつたこと及び幸陽船渠株式会社の修理代金が低廉であるとの事実は否認する。その他の事実は知らない。原告は前記接触により本船にその主張のような損傷を生じたというけれども、そのような事実はない。このことは(一)他船が前記桟橋から艀船二隻を曳出した際には、離岸して航行を開始した直後であつて仁川港の海面の狭隘である為、全く微速力で航行していたものであるから、原告主張のように他船の曳航する艀船が本船に激突するということは到底考えられない。接触したことさえ他船乗組員は意識しなかつた位であること、(二)当日午後五時過頃他船船員大黒亀松が東西汽船株式会社係員村岡利男から前記接触の事実を聞知し、他船船長代理として本船に赴き船長と会見した際、船長は損傷を被つた事実は勿論損傷の箇所を指摘して点検を受け現認書をとることもしていないし、後記の通り他船が本船を抱えて釜山港に入港し、二週間同港に接船して碇泊していたのに本船乗組員から何等損傷の事実については話はなかつた。仮に本船関係者が損傷の事実を説明する機会がなかつたとしても、本船船長は下関到着の際には船員法第一三条第一項、同法施行規則第一三条の規定により管海官庁に事故報告をすべきであるのに、これもしていないこと、(三)本船船長は昭和二七年二月二日米軍監督将校に対し本船の損傷は米船と艀船との間に狭まれて生じた損傷か或は釜山廻航の際荒天に遭遇して被つた損害である旨報告していること等の事実から推しても明かなところである。

二、仮に本船に原告主張のような損傷があつたとしても、それは次のような事由によつて生じた損害である。

(一)  本船が釜山廻航まで仁川港において従事していた米軍の曳船作業は連続二〇時間の全稼動であつた為(イ)船員の疲労が甚しく(ロ)エンジンベツドの緩みが生じ、これに伴い船体の振動が増大しエンジン冷却機に亀裂が生じて水漏し、その他船体、機関の全体にわたつて損傷箇所多く、(ハ)曳船作業中は艀船を横抱えにしたり、曳船したりして米船に接触する機会が多く、且つ仁川港における風速及び潮流の激しさの為木船である本船が他物と接触して損傷を受け、その都度米軍の修理を受けていたものの目に見えない損傷を被つていたこと等が因となり果となつて更にその損傷を多きくしたこと、(ニ)本船は右のような損傷を認識しないで釜山港に向け仁川港を出航した後昭和二七年一月五日風速二〇メートルの北西の突風に遭い、同月六日午前五時頃鞍馬島北方一〇浬の地点で舵柱の上部に亀裂を生じ操舵不能となつて漂流し、更に同日午前八時頃同島の投錨地附近で風浪の為浅瀬に乗上げ船底を激しく突き上げられ舵柱舵心の取付金具を折損し、舵を海中に脱落させる等の損傷を受け、同月一二日木浦行漁船に曳航されたが鞍馬島南方二〇浬の地点の無名島の砂嘴に坐洲し、折柄の風速二〇メートルの風で船底を激しく砂底に衝突させ、船底に更に損傷を重ね木浦港からは独航不能に陥り、救助に到着した他船に抱かれて同月一九日釜山港に入港し、その間にも荒天に遭遇して沈没に頻する等難航した。

従つて被告等は本船が右のような原因により被つた損害を賠償する責任はない。

三、仮に他船の船長である被告島の過失により本船が原告主張のような損傷を被つたとしても、本船の釜山廻航の原因は本件衝突による損傷修理の為ではなく、衝突前に生じていた損傷殊にエンジンベツドの緩みを修理する為と、船長並びに船員が長期にわたる事変下外地での激務に心身共疲労していてとりあえず釜山、できれば内地に帰還したいと希望していた為で、東西汽船株式会社においては本件衝突前既に本船を釜山へ廻航する方針を決定していたところ、たまたま本件接触を契機としてその方針を実現したに過ぎない。従つて被告等は原告主張の(1) 乃至(4) の損害を賠償する責任はない。

四、仮にそうでないとしても、本船は本件衝突前前記の通り船体及び機関に相当損傷を被つていた上、本件衝突により原告主張のような損傷を被つたならば、船長たるものはよろしく損傷の箇所を点検し、でき得る限りの応急修理を施して航海に支障のないようにする義務がある。殊に釜山まで二昼夜以上の航海を必要とし且つ途中季節風が吹きすさび難航を予想される航海をするに際しては尚更右検査義務は加重され、少しでも航海に危険を感ずるような状態であれば釜山廻航を中止すべきであつたのに、本船船長は点検はおろか、応急修理をも施さず、漫然本船をして仁川港を出航させたため途中前記のような荒天に遭遇して難航し木浦港から独航不能になつたものであり、又釜山港は朝鮮最大の港で大小様々の船舶が出入港し、しかも造船工場の設備を有することは周知の事実であるから、本船のような船舶の舵に使用する樫材がないはずはなく、仮になかつたとしても他にこれに代る木材があつたし、且つ東西汽船株式会社は同港に修理の為工作船を有していて本船はこれより修理を受けることができたから、釜山港において修理は可能であつた。そして船長としては船主の為最も利益になるように本船を稼動する義務があるのであるから、同港において代用材により舵を一日も早く修理し、仁川港における作業を継続し船主の被る損害を最少限度に食止めるべきであるのに拘らず、前記の義務を怠り本船を内地に廻航し、船主の損害を拡大させたものであるから、右船長の過失は当然被告等の賠償額の範囲の決定について参酌されるべきものである。従つて被告等が賠償すべき損害は原告主張の損害中本件衝突により生じた直接損害である(5) 及び(6) の損害に限定されるべきである。

仮に本船船長に右に述べたような過失がなかつたとしても、被告等の賠償を要する額の範囲は、本船が仁川港から釜山港までの航行に通常要する二日及び釜山港において損傷修理の為必要とする七日合計九日間の原告が得べかりし傭船料の喪失による損害と本件衝突により原告が直接被つた損害に限定さるべきである。

と述べ、

原告の再答弁に対し、木浦港から釜山港まで被告島が病気の為寝ていたことは認めるが、本船が仁川港において曳船作業に従事中他船と数回接触し本船が少損害を被つたことはない。又本船が米軍から仁川港において出港許可を、釜山港において内地廻航許可を得たこと、米軍の修理費用負担の方針が変更した事実は知らないと述べた。〈証拠省略〉

理由

原告は昭和二六年一〇月五日その所有する本船について東西汽船株式会社との間に六ケ月間の定期傭船契約を締結し、本船は昭和二六年一〇月二〇日以来右契約に基き朝鮮仁川港内において米第八軍指定の曳船作業に従事していたこと、被告会社もその所有の他船について東西汽船株式会社との間に定期傭船契約を締結し、他船も本船と同様当時仁川港において米第八軍指定の曳船作業に従事していたことはいずれも当事者間に争がない。

証人雪頭明吉の証言(第一回)により成立を認め得る甲第二号証、同証人の証言(第一、二回)により成立を認め得る同第一一号証の四一、四二、証人雪頭幸雄の証言により成立を認め得る同第三号証、証人村岡利男の証言により成立を認め得る同第一三号証、原告本人尋問の結果により成立を認め得る同第一九号証の一、二、成立に争のない乙第二号証、証人松浦坂太郎、雪頭明吉(一、二回)、雪頭幸雄、細野昌彦(一、二回)、嘉納信一の証言、被告島春馬本人尋問の結果を総合すると、本船は昭和二七年一月一日午後三時四〇分頃仁川港水門入口南桟橋北側に到着し、貨物積載鋼製艀船の外側に係留していたところ、同日午後四時頃同水門北桟橋南側を空艙鋼製艀船二隻(舵の装置なく、乗員なし)を船尾に順次曳航して同桟橋を発航した他船は発航直後舵を大きく左に採り更に急激に右転した為、その曳航する殿艀船の左舷船尾を本船左舷船尾に激突させ、その為本船は右舷側に大傾斜し、右舷中央部が係留鋼製艀船と接触したこと(昭和二七年一月一日午後四時頃仁川港水門入口北桟橋南側において他船が空艙鋼製艀船二隻を曳航した際その艀船が本船と接触したことは被告等の認めるところである。)、本船船員は、右衝突当日本船船体に左右両舷の外板二ケ所が破損し、舵が一寸位上り、舵心材の下部に五、六寸位の縦の亀裂と舵柱材の上部に亀裂があることを発見し、更に同月二日右舷側において肋骨二本を折損していること、同月六日鞍馬島において推進器翼が一枚届曲し、シユーピースが亀裂していることを各発見したこと、同月七日本船は舵心材、舵柱材の折損とシユーピースの離脱のため舵を海底に落したことをいずれも認めることができる。前記甲第三号証、同第一一号証の四一、同第一九号証の二、証人松浦坂太郎、大黒亀松、雪頭明吉(一回)、村岡利男、細野幸雄、嘉納信一の証言中右認定に反する部分は信を置けず他に右認定に反する証拠はない。

そこで先ず本船の右損傷が本件衝突に基因して生じたものであるかどうかの点について判断する。

前記甲第二、第三号証、証人雪頭明吉の証言(一、二回)により成立を認め得る甲第一一号証の一〇、一八、三三、三六及び三九、成立に争のない同第一五号証の一、二、当裁判所が真正に成立したと認める昭和二九年一一月二六日及同三〇年二月二四日付神戸海洋気象台の報告書、証人松浦坂太郎、雪頭明吉(一、二回)雪頭幸雄、細野昌彦(一回)、田中良水、嘉納信一の証言、被告島春馬本人尋問の結果を総合すると、本船が仁川港において曳船作業に従事中艀船や汽船等の他の物と接触し、船体に多少の損傷を被つたり、又時にはエンジンに故障を生じたこともあつたが、右損傷等はいずれも米軍又は本船の乗組員の手で修理を施され、本件衝突当時には前記認定のような損傷がなかつたこと、本件衝突後本船の損傷点検の為本船を試運転したところ、本船の舵が重くなつていたこと、本件衝突の翌日本船が米船との連絡の為単独で運航した際舵はともかくきいたがその速力が減じていたこと、本船は本件衝突以後曳船作業に従事していないこと、本船は衝突後損傷修理のため昭和二七年一月四日午後一時仁川港を出港し、同日一時天候悪化に備えて徳積島に、同月六日未明舵がきかなくなつた為鞍馬島に各避難したが、本船船長は、鞍馬島に投錨して間もなく推進器翼一枚の屈曲とシユーピースの亀裂を、翌朝舵の脱落を知つたので、救助を受けるため米軍えの連絡と曳船の雇入に種々と手を尽し、同月一三日に至つて木浦行の漁船を雇入れることができたので、同日本船は右漁船に曳航されて翌一四日木浦港に入港し、同月一七日米軍の指図で救助に到来した他船に抱えられて同港を出港し、同月一九日釜山港に入港したこと(本船が昭和二七年一月四日仁川港を出港し、途中鞍馬島に避難し、木浦行漁船に曳航されて木浦港に入港し、救助に到着した他船に抱えられて同港を出港し同月一九日釜山港に入港したことは当事者間に争がない。)、その間一月七日、八日と同月一二日、仁川、木浦間の海上はかなり荒れた模様であるが、いずれも本船が鞍馬島に避難中でしかも舵及び推進器の損傷を発見した後のことであること、本船が仁川、木浦間を航行中は海上はおおむね風速三メートル乃至八メートル位で多少風浪があつた位で、本船の機関、船体に損傷を被るような荒天激浪に遭遇したり、坐礁したことがないことが認められる。証人細野昌彦の証言(一回)により成立を認め得る乙第三乃至第五号証の記載及び証人雪頭明吉(一回)、村岡利男、細野昌彦(一、二回)、田中良水の証言、被告島春馬本人尋問の結果中右認定に反する部分は信を置けず、他に右認定に反する証拠はない。

これに前記認定事実を総合すると、本船は本件衝突の結果、左右両舷の外板各二ケ所、破損右舷側において肋骨二本折損、推進器翼一枚屈曲、舵心材、舵柱材及びシユーピースの亀裂の損傷を被り、曳船能力を欠くに至つたことを推認するに難くはない。

被告等は前記損傷は本船が仁川港において従事していた米軍の曳船作業中他物と接触して生じた損傷と、仁川、釜山間を航行中荒天に遭遇した結果被つた損害である旨主張するが、前記乙第三乃至第五号証、証人村岡利男、細野昌彦(一、二回)、田中良水の証言、被告島春馬本人尋問の結果中前記信を置けない部分を除いては他にこれを認めて前記推定を覆すに足る証拠はない。もつとも、本船船長及び船員等が他船船長等に本件衝突による損傷を告げて抗議を申入れ、損傷箇所の現認書を取つていないこと、本船船長が本件衝突について管海官庁に報告していないことは当事者間に争がなく、又証人田中良水の証言、被告島春馬本人尋問の結果によると本船船長は釜山港において、米軍監督官に対し、本船は米軍の曳船作業中損傷を受けた旨の報告をしていることが認められる(証人村岡利男の証言中右認定に反する部分は信を置けない。)が、証人雪頭明吉(一、二回)の証言によると、本船船長等が、他船船長等に本件衝突により損傷を被つたことを告げて抗議を申入れ、損傷箇所の現認書を取らなかつたのは、本船船長は当時米軍において損傷の修理費用を負担して呉れるものと考えていたし、又東西汽船株式会社の係員を通じ米軍にそのことを交渉中であつたので、被告等に対し損害賠償を要求するに至ることもなかろうと考えていた為であるし、本船船長が管海官庁に事故報告をしなかつたことも、前記の事由と本件衝突は本船が米軍の作戦に従事中、外地で発生した事故であり米軍の機密に属するものと考えた為であることが認められる。又同証言から推すと、前記本船船長の米軍監督官に対する報告も、船長が米軍に修理費用の負担を求める為ことさらに事実を曲げて報告したものと考えられないこともないから、本船船長等が他船船長等に本件衝突による損傷の事実を告げて抗議を申入れ、損傷箇所の現認書を取つていないこと、本船船長が管海官庁に事故報告をしていないこと、及び米軍監督官に対して本船が米軍の曳船作業中に損傷を受けた旨報告していることだけから、到底前記損傷が本件衝突に基因するものでないとはいい得ないから、同前記推定の妨げとなるものではない。

次に本件衝突は他船の船長である被告島の過失に基き惹起されたものであるかどうかの点について判断する。

航行船船長は操縦の自由を有しない停泊船を避航すべきであり、特に港内のような狭隘な海面において、操舵装置及び乗員のない艀船二隻を曳航して回転するに際しては、その曳航する艀船が停泊船に接触しないように操舵及び機関運転に細心の注意を払う職務上の義務を負担していることはいうをまたない。そして前記甲第二、第三号証、同第一三号証、乙第二号証、証人松浦坂太郎、大黒亀松、雪頭明吉(一回)雪頭幸雄、細野昌彦(一、二回)田中良水の証言、被告島春馬本人尋問の結果を総合すると、本件衝突現場は仁川港水門入口附近の狭隘な海面で水門入口西側に接続して水門入口を底部としたすり鉢型に南桟橋と北桟橋とが相対峙し、南桟橋の西端附近に沈船があり、右沈船の西方は浅瀬となつていた。又北桟橋の西方五〇メートル乃至六〇メートルの海中には沈船があつた。両桟橋間の距離は水門附近において約一八メートル、西端においては約六〇メートルあつて、事故の直前には南桟橋の北側ほぼ中央部附近を中心に桟橋に沿つて長さ二五メートル、幅一〇メートルの荷を積載した鋼製艀船二隻が一列に係留されていて、右艀船の西側の一隻の西北側に南桟橋の西端からやや水門入口寄りに本船が船首を東方水門入口に向けて横付けし、水門の開くのを待期していた。又北桟橋南側に沿つて同桟橋の西端附近には他船が西方に船首を向け船尾にロープで一列に前記同様の空艀船二隻を連結し(他船と第一艀船との間約七メートル乃至八メートル、第一艀船と第二艀船との間約一メートル)碇泊し、将に沖に発航しようとする態勢にあつた。他船の進行方向の北桟橋の西方には前記のように沈船があつたが、当時風は北から南の方向に吹いていて、潮流も同方向に流れていたので、他船が沖に直航したとしても潮流と風に多少流されるから右沈船に衝突する危険はなかつたし、又当時は漲潮の初期で右沈船は海面上に姿を現わしていたから大きく沈船を避ける必要はなく、大事をとるとしても、少く左に舵を採れば右沈船を避け得る状況にあつたのに拘らず、他船船長である被告島は他船の発航に際し前記注意義務を怠り、舵を大きく左に採り、更に急激に右に方向転換をすると益々曳航する殿艀船が本船に衝突する危険があることに気付かずして、漫然舵を大きく左に採り更に南桟橋西方の沈船及び浅瀬を避けることのみに気をとられ急激に右転したため前記の通り曳航の殿艀舶の左舷を本船の左舷に激突させたものであることが認められ、証人松浦坂太郎、大黒亀松、雪頭明吉(一回)の証言、被告島春馬本人尋問の結果中右認定に反する部分は信を置かない。そうだとすると本件衝突は被告島の過失に基因するものであるから、被告島は船長として、被告会社は船舶の所有者として、原告が被つた損害を賠償する責任があるものといわねばならない。

次に被告等の賠償すべき損害額について判断する。

本船は本件衝突後曳船能力を失い稼動していなかつたが昭和二七年一月四日損傷修理の為仁川港を出港し同月十九日釜山港に入港したことは前記の通りであり、証人木曽清の証言により成立を認め得る甲第五号証の一乃至三、同第六号証、原告本人尋問の結果により成立を認め得る同第七号証の一、二、同第八号証、証人雪頭明吉(一回)の証言により成立を認め得る同第一一号証の四二乃至四六、五七、五八、六〇乃至六二、六七乃至六八、証人雪頭明吉(一回)、細野昌彦(一、二回)、木曽清の証言、原告本人尋問の結果を総合すると、前記の通り釜山港に入港した本船は更に内地で修理を受ける為昭和二七年三月二日代円舵を使用して釜山港を出港し翌日下関港六連島に到着し、広島県幸崎にある幸陽船渠株式会社工場で修理を受ける為機帆船清勝丸に曳航され同年三月六日下関港を出港し、同年同月九日同工場に到着の上船体の修理を終え同年同月一八日同工場を出発し、同日下関港に入港し、同港において傭船者からの出港命令を待期しながら出港の諸準備を整え、天候の回復を待つて同年同月二六日下関港を出港し、従来の曳船作業を継続する為仁川に向つたものであつて、本件衝突当日から昭和二七年三月二六日午後三時まで傭船契約に基き稼動しなかつたこと、従つて原告は(一)傭船契約の約旨に基き衝突後の昭和二七年一月二日午後二時から同年三月二六日午後三時までの二ケ月二四日間はオフハイヤーとして一ケ月金六〇〇、〇〇〇円の割合による傭船料金一、六六四、五一五円九二銭の収入を受け得られなくなつたが、東西汽船株式会社から内金九四一、七一三円の支払を受けたので、これを控除した残額金七二二、八〇二円九二銭の得べかりし利益を喪失した外、(二)内地行のために合計一二三時間一五分航行(仁川港徳積島間六時間、徳積島鞍馬島間一六時間三〇分、鞍馬島木浦間二九時間、木浦港珍島間三時間五〇分、珍島向日島間二時間〇五分、向日島羅考島間六時間四〇分、羅考島釜山港間一〇時間二〇分、釜山港六連島間一六時間、六連島下関間一時間三〇分、下関港中之島間一四時間三〇分、中之島大崎島間二時間、大崎島幸崎間一時間四〇分、幸崎下関間一三時間一〇分)し、その間一時間について重油二斗(一斗当り価格金二一〇円)、機械油二升(一升当り価格金八〇円)の割合による価格合計金七一、四二七円(右計算によれば金七一、四八五円となるが、その内原告の請求する限度において)の燃料油代金を支出し、(三)前記オフハイヤー期間中は傭船者から船員の食糧費の支給を受けられなかつたので、右期間中船員六名につき一月一人当り金三、〇〇〇円の割合による食糧費合計金五〇、四〇〇円の支出を余儀なくされ、(四)昭和二七年三月八日清勝丸船長に対し下関幸崎間の曳船料金として金一五、〇〇〇円を支払い、慣例に従い金一、〇〇〇円の酒代及び燃料油一八〇リツトル(価格金二、一〇〇円)を交付し、(五)昭和二七年四月一日幸陽船渠株式会社に対し本件衝突による船体修理費として金二八六、〇〇〇円、(六)同年同月同日株式会社末田鉄工所に対し推進器及びシユーピースの修理代金として金八〇、〇〇〇円を支払つたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。右の認定事実に前記本船が仁川港から釜山港に至る航行経過及び後記認定の本船が仁川港から釜山港へ、更に同港から内地へ廻航されるに至つた事情をかれこれ総合すると、反対の事情がない限り、前記原告の被つた(一)乃至(六)の損害はいずれも本件衝突に基因した損害であると認めるを相当とする。

被告等は本船の内地廻航は本件衝突による損傷修理の為ではなく、本件衝突以前の損傷修理の為と事変下長期にわたる外地での激務で船長始め船員等は心身とも疲労していたので、その希望によつたものであるから前記(一)乃至(四)の損害を賠償する責任はないと主張するが、本件衝突当時本船にエンジンベツドの緩みその他修理を要する損償乃至故障が生じていたことなく、本件衝突による損傷修理の為内地に廻航したこと既に説示したところであるから、この点の被告等の主張は失当である。もつとも前記乙第三号証、証人松浦坂太郎、雪頭幸雄、細野昌彦(一、二回)田中良水、嘉納信一の証言、被告島春馬本人尋問の結果によると本船が仁川港において米軍の曳船作業に従事中連続二〇時間の稼動を強いられ激務の為船長始め船員等の心身は極度に疲労し、休養を強く希望していたことがうかがえるが、この事実は必ずしも前記の認定の妨げとなるものではない。

被告等は本船船長は、その義務に違反し、損傷箇所の点検はおろか、損傷の応急修理をも施さず、漫然季節風吹き荒ぶ航海に出航したため、木浦港から本船の航行を不能に陥れたものであり、且つ釜山港においても修理が可能であつたのに拘らず殊更本船を内地に廻航したものであるから、損害の拡大について過失がある旨主張するが、前記甲第二、第三号証、同第一九号証の一、二、証人松浦坂太郎、雪頭明吉(一、二回)村岡利男、雪頭幸雄、細野昌彦(一回)嘉納信一の証言を総合して認められる仁川港には何等船舶の修理施設がなかつた事実及び本船船長は衝突後損傷の有無を点検の上、東西汽船株式会社係員を通じて米軍に対し修理の為釜山への出航許可を求め、米軍監督官の損傷箇所の検査を受けて米軍より出航許可を得た上浸水しないよう一応の応急修理を施して、仁川港を出港した事実に、経験上明かな、事変下の船舶と人手の不足の仁川港において船長が曳船を雇入れることは到底不可能である事実を併せ考えると、たとえ釜山港までの航路に難航を予想されたとしても、本船船長が曳船を雇入れないで本船を独航させたことは已むを得なかつた措置であつたという外はないし、本船が釜山港への航行途中舵を落下させたことは前記の通りであるが、成立に争のない甲第二〇号証の二、三、原告本人尋問の結果によると、本船は本件衝突の際舵に取替を要するような損傷を受けて独航能力を失つたと同様の状態であつたのであるから、仮に舵の落下について船長に何等かの責任があつたとしても、新たな損害を生ぜしめたものとはいい得ない。又前記甲第二、第三号証、証人雪頭明吉(一、二回)細野昌彦(一、二回)田中良水、嘉納信一の証言被告島春馬本人尋問の結果によると、本船船長は釜山港において米軍監督官から本船の検査を受け、米軍を通じて一ケ月余にわたつて八方舵の修理用材を探したが、適材がなく且つ内地から修理用材を取寄せるのも困難な事情にあつたので、已むを得ず日時と経費節約の見地から修理の為米軍の内地廻航の許可を得たことが認められる。そして証人細野昌彦(一、二回)、田中良水の証言中右認定に反する部分は信を置けないからこの点の被告等の主張は失当である。

又被告等は原告の得べかりし利益の喪失による損害は、本船が仁川港から釜山港までの航行に通常要する二日及び釜山港において損傷修理に必要とする七日合計九日間の傭船料の喪失による損害に限定されるべきである旨主張し、証人雪頭明吉(一回)田中良水の証言によると本船は通常二、三昼夜の航行で仁川港から釜山港に到達し得ることが認められるが、損傷を受けた本船が、曳船を得ることの困難な事変下の朝鮮海域において、被告等主張のような期間で仁川港釜山港間を航行し、且つ釜山において修理を完了できたと認め得るに足る証拠は何もないからこの点の被告等の主張もまた失当である。

そうだとすると、被告島は船長として、被告会社は船舶所有者として各自原告に対し前記(一)乃至(六)の損害金合計一、二二八、七二九円を支払う義務がある。

よつて原告の本訴請求は相当であるから認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、仮執行の宣言について同法第一九六条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 熊野啓五郎 中島孝信 芦沢正則)

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